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渋川の寮

初代栄次郎の四男・亮之助が初代の死去に伴い事業継承したのは、昭和18年(1943年)。亮之助34歳の時。その人生は決して安楽なものではなかったが、どんな不幸に面した時でも悲観的にならず、常に楽観的に前向きに過ごした姿は、後継者達に大きな影響を与えた。

人を信じ、自分に正直に生き抜く人生哲学は、結果的に幸せを招き、その生き様におのずと現れる。


徴用時代
昭和18年、「国民徴用令」によるいわゆる白紙召集で、三井造船所へ徴用された時のこと。配給係を命ぜられた亮之助は、当時酒やタバコが配給制で物が不足していたため、ある小売店を通じ寮の方へ一括配給できるよう交渉。結果、希望が叶えられ寮生から大変喜ばれた。寮生名簿の中には赤紙応召者が相当あり、それだけ余分に貰った訳で、全員に配給した残りを特配とか称して放出した。

このことで、ある日憲兵から出頭命令を受けた。呼び出しを受けた6名に出頭の晩夕食が出たが、亮之助は残さず全部食べたが、ある者は半分残し、またある者は手をつけず、殴られたのであろう顔を腫らせたものもいた。夕食の食べ方がそれぞれの立場を物語っていた。
亮之助は酒やタバコの余裕分を交換材料にして必要物資の調達を図ったが、公定価格は絶対に守り、闇値の取引はしなかったし、自分の利益をはからなかったことが認められたのである。