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当時の中国銀行庭瀬支店
昭和25年(1950年)、朝鮮戦争勃発。世に言う「特需景気」となり、日本経済は大幅な成長を成し遂げる。
そんな中、亮之助もこの機会を逸しては自立する機会はないと思い、6年間世話になった浅越商店を退社、戦前の問屋業再興に踏み切った。
資金は殆どゼロに等しい状態で、ただ城口は堅い奴、間違いのない奴という信用と残っていた小さな倉庫二棟だけが元手であった。
戦前からの取引銀行に、三十万円余りの手形を割ってもらいに行ったが、既に10年間のブランクのためか、不首尾であった。
仕方なく戦前よく取引して欲しいと来ていた中国銀行の庭瀬支店を尋ねて、この割引きを願い出たところ、ひとつ返事で引き受けて貰い、商売を軌道に乗せることができた。
問屋を再開してからの数年間は、夜を日についで、それこそ息をする間もないくらい一生懸命働き、何とかお金の不自由さも感じない程になり、従業員も数人頼んで商売の間口も拡げ、「城口はよく伸びた。流石だ。」と評判をとるまでになった。
昭和31年(1956年)税務署から申告の数倍になる更正決定通知がきて、大変難儀をした。ほどほどに片をつけることができたが、いつまでも個人商店でもあるまいというので、この一件を機に翌32年(1957年)法人組織に切り替え、以後、インチキなしの正しい経理にし、税務署のおとがめも殆ど受けたことがない。