TOP

淳一と重子
昭和34年(1959年)亮之助が岡山市議会議員に選出され、商売の一切を息子・淳一が引継ぐことになった。翌35年(1960年)社長を淳一に譲り、亮之助は会長になった。
ちょうどその頃は、所得倍増をスローガンにした池田内閣が成立した頃である。
岡山県では、名知事といわれた三木知事が、倉敷水島地区の立地条件を見抜き一大コンビナート構想をたて、企業誘致を進めていった。
昭和33年に三菱石油(現在の新日本石油精製)、36年に川崎製鉄(現在のJFEグループ)と中核企業の立地が決定。40年代前半には大手約30社に及ぶ企業が集まった水島は「新産業都市」の優等生と呼ばれた。
一方、この余波を受け、県南を中心とするかつて全国一の生産を誇っていた藺草の作付面積は年々減少し、県下藺製品業界もその地位を九州地方に譲り生きていくためには熊本へ移るか、転業を考えざるを得ない状況に置かれた。
淳一はこの状況をいち早く察知し、インテリア関係へ手を拡げ、昭和44年(1969年)には、国道2号線(現在の旧国道2号線)沿いの土地を求めて店を新築し、順次藺製品からの撤退を図りながら、水島地区への進出を計画した。それこそ、草の根を分けての開拓と血のにじむような苦労を重ねて、現在の川鉄鶴の浦社宅敷地内に事務所を置き、地区内の大小多数の企業を得意先に持つことができるまでになった。
昭和51年(1976年)会社を株式会社城口に商号変更したとき、亮之助が「城口」に仮名を付けた方がよいのではないか。」と言ったら、淳一は「その必要はない。いまに天下の城口になってみせる。」と豪語したが、その言葉は、常に構想を練り、実践して限りない前進を続けるという淳一の生きざまのあらわれであった。
目標は大きくても、順次足元を固め、一歩一歩進んでゆく堅実さがあった。
初代・栄次郎が県内の畳表仲買業者だったのを問屋業に切り替えた時、亮之助も県外へ新しい得意先を求めて苦労を重ね開拓していったが、淳一の場合、全く新しい分野への転進であり、困難や苦労は一段ときついものであったと考えられる。